フレデリック・ショパンの生い立ちについてはご存知でしょうか?
今回は、「ピアノの詩人・ショパン」についてのお話です。
前回、ピアニスト・辻井伸行くんの、第15回ショパン国際ピアノコンクールに挑戦した模様をお話しましたが、このコンクールの名前にもなっている「ショパン」について、約200年前の彼がどんな生涯を送ったのか、改めて簡単におさらいをしたいと思います。
ショパンの生い立ちや、生まれ故郷のポーランドを出国後、生涯ポーランドに帰らなかった理由、パリで「革命」の曲が生まれたきっかけ、彼の演奏活動や作曲活動、結核で苦しんでいて、居をマジョルカ島に移したが、回復せず、パリへ戻って39歳の若さで早世してしまったことなどについてのお話です。
辻井伸行くんの演奏による「革命」の曲や『別れの曲』の動画を交えて、ショパンの生涯を簡単に解説して、200年前のショパンが、どんな心情で作曲したのかを思い画きつつ、彼の素晴らしい名曲の数々を、あらためて堪能したいと思います。
ショパンの生い立ちを簡単に解説
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ショパンの生い立ちを簡単に解説すると、
ショパンはフランス人の父とポーランド人の母のもとに1810年にポーランドの首都ワルシャワ近郊の街で生まれました。が、間もなくショパン一家は、ワルシャワに移り住みます。
病苦に生涯悩まされたショパンですが、幼少期は両親と3人の姉妹に囲まれた幸福なものでした。
教養があり社交的な両親と音楽をたしなみ、音楽大好きなショパン一家は、ピアノ、バイオリン、フルート、歌、など、いつも音楽に溢れている明るい家庭で、ショパンは4歳のころより、母親にピアノを習い始めるのです。
ショパンが6歳のころに、チェコ出身のジヴニーというピアノ教師に出会い、シヴニーはショパンがピアノの天才であることに気づいたことから、演奏活動が始まり、7歳ころには作曲を始めて、「ポーランドのモーツアルト」と呼ばれるようになります。
ポーランドは、マズルカやポロネーズなど、民族舞曲の宝庫でした。
「ポロネーズ11番」と呼ばれている曲が、ショパンが生涯で作曲した最初のものといわれています。
そして、ワルシャワ音楽院に入学し、首席で卒業します。
その後、オーストリアのウイーンで作曲と演奏活動を行い成功を収めたショパンは、フランスのパリへ活躍の場を広げていきます。
1830年7月、ショパンはパリで、祖国ポーランドで革命が起こったことを知るのです。
ロシア軍がポーランドのワルシャワに侵攻して、1831年9月、首都ワルシャワは陥落し、その知らせを受けたショパンは怒りと共に深く絶望し、『革命』という曲が生まれるのです。
ショパンはポーランドの革命で絶望する
ショパンはパリで、1831年9月に祖国ポーランドのロシア侵攻による革命の敗北と、ワルシャワ陥落の知らせを受けて深く絶望し、悲しみと怒りの感情をぶつけた練習曲『革命』の曲が生まれることになります。
それは、彼の今までには無い、激しい感情が渦巻くような、失われた祖国への、深い絶望が反映されている曲なのです・・
確かに、辻井伸行くんの『革命』のピアノ演奏を聴いても、今までにない、激しさ、強い怒りのようなものが感じられますよね・・
現在の、ウクライナ国へのロシアの侵攻と似た構図ですね・・
200年たっても、また同じようなロシアによる他国侵攻という構図に、憤りを覚えませんか?
ショパンにとって、祖国を奪い取られたわけですから、どんなに切なくくやしいか、同情してあまりあります・・
この『革命』の曲を聴く時、ノクターンなどの甘く美しい、繊細で物悲しい、などの、ショパンの曲のイメージとは全く違う、怒りと絶望を込めた、強く激しい『革命』の作品誕生となったのです。
この『革命』の曲は、辻井伸行くんが先の動画でも演奏されてますが、
ご紹介商品:【[Disc1]『CLASSICAL』/CDアーティスト:辻井伸行】の中にも
4.(ショパン)/革命 [エチュード 作品10の12]/(辻井伸行)[2:34] として収録されていますので、こちらからも聴いてみてくださいネ!
ショパンはポーランドへ生涯帰れず
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ショパンは1830年、パリでの創作活動と演奏活動を始めますが、瞬く間にスターとなりました。
サロンでショパンがノクターンなどを演奏すれば、ご婦人方がうっとり聞き入る光景がよく見られたそうです。
また、この時期ショパンは、リストやシューマンとも出会っていて、充実した日々を送ったようです。
ショパンは結局、その後二度とポーランドの土を踏むことなく生涯を終えることになるのですが、それを悟ったかのように、この時期に作られたのが、後に『別れの曲』と名付けられた練習曲でした。
故国との訣別に慟哭するショパンの心情を表現していることが容易に想像できるような、悲哀に満ちたメロディです。
甘さ、優しさ、激しさ、あらゆる感情が込められた『別れの曲』。
ショパン自身が、「これ以上美しいメロディは書けなかった」とのちに語ったほどの名曲です。
上記動画で聴いていただいたと思いますが、辻井伸行くんの演奏による「別れの曲」は、確かに郷愁漂う美しい曲ですよネ・・
この曲も【[Disc1]『CLASSICAL』/CDアーティスト:辻井伸行】の中に
3.(ショパン)/別れの曲 [エチュード 作品10の3]/(辻井伸行)[4:02]
~として、収録されてますで、こちらもCDで聴いてみてください。
1835年、ショパンはポーランドを離れて以来、会えていなかった両親とチェコのカールスバートで久しぶりに再会しました。
そしてこの時期に、ショパンは恋をし婚約するのです。
相手は、懇意にしていた家の末娘マリアでした。マリアとショパンは、マリアと家族が住んでいたドイツのドレスデンで出会っていたのです。
20代半ばになっていたショパンは、このころから結核の病に苦しむことが多くなり、娘の将来を心配したマリアの両親の介入もあり、結局婚約は破談となってしまいます。
そして生まれたのが、『別れのワルツ』でした。
ただ、この作品は、ショパンの死後に発見されたそうです。
1838年、ショパン28歳の時、ショパンに熱烈な好意を抱いていたジョルジュ・サンドとの交際が始まるのです。
ジョルジュ・サンドはショパンより6歳年上の、2人の連れ子のいる作家です。
ショパンの病気療養のため、サンドとともにスペイン領のマヨルカ島に移住を決めるが、マヨルカ島は天候悪化で、ショパンの体調も更に悪化したので、サンドの別荘があるフランス中西部のノアンへ移住します。
1840年、サンドとともにパリへ戻り、ピアノソナタ第2番「葬送」を作曲します。
1841年、プレイエルでコンサートを開き大成功を収めるのです。
春夏はノアン、秋冬はパリで過ごすという生活を送っています。
1842年、体調が良くなり作曲に集中できて、名曲が次々と生まれます。
バラード第4番、ノクターン第13番、ポロネーズ第6番「英雄ポロネーズ」
1847年、約10年間共に暮らしたサンドと決別することになるのです。
1849年、ショパンは肺結核が悪化し10月17日、パリにて39歳の若さで生涯を閉じたのです。
ショパンの心臓は遺言に従い、祖国ポーランドの聖十字架教会に収められたそうです。
ショパンは結局、生涯愛した祖国ポーランドの土を二度と踏むことなく、生涯を終えることになったのです・・
まとめ
今回は、皆さんも大好きなショパンの生涯を簡単におさらいをしました。
その美しい、繊細で心に染みいる美しい曲を作って世に出してくれたショパンですが、200年以上たっても、「ピアノの詩人」としてショパンの名曲の数々は、辻井伸行さんのピアノ演奏でますます輝きを増していますよネ!
結核で39歳という若さで生涯を閉じてしまったショパンですが、結核の病に苦しみながらも、後世の私たちに素晴らしい作品を残してくれたことに、まず、感謝したいと思いますが、あなたはいかがでしょうか?
彼がどんな状況や思いで作曲したのかについて、その思いを描きつつ、名曲を聴いてみると、また更にショパンの曲の魅力が増すかもしれませんね!
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