今回は、アシュケナージ演奏の【ラフマニノフ ピアノ協奏曲2番】【ラフマニノフ ピアノ協奏曲3番】の楽曲を収録したCDの紹介です。
アシュケナージはラフマニノフのピアノ演奏のスペシャリストとして数多くの録音を行い、同じロシアの風土で育ったこともあり、ラフマニノフに対する解釈と深さでは群を抜くといわれています。
ラフマニノフピアノ協奏曲2番、3番はアシュケナージのピアノ演奏テクニックと、解釈の深さから、奥の深い世界を味わうことが出来る楽曲として、あなたもアシュケナージの美しくて深いの演奏のラフマニノフを味わっていただければ、と思います。
アシュケナージ演奏のラフマニノフ ピアノ協奏曲2番
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アシュケナージ演奏の【ラフマニノフ ピアノ協奏曲2番】は圧巻ですね・・
この曲は、ラフマニノフの作品の中でもダントツの人気を誇っていますが、どんな曲かと云うと、
第1楽章の冒頭から、荘厳で広大なロシアの荒涼とした雰囲気の迫力ある音が続き、第2楽章は一転して貴族たちが集う宮殿の華やかな美しいメロディー、第3楽章では再び叙情的、ダイナミックな演奏を楽しむことができるのです。
ただ、演奏する側にとっては、極めて技巧的な箇所が多く、ピアノの名手であったラフマニノフの技巧に匹敵するテクニックが要求される、ピアノ曲の中でも屈指の難曲と言われているのです・・
大柄なラフマニノフの手は大きいうえ柔軟性も高く、12度、ドからソまで(27㎝)届いた!と言われていて、超絶技巧のピアノの名手でした。
数年前にピアノ協奏曲第1番を発表し、これが酷評された苦い思いを胸に、第2番は作曲されたので、ピアノ協奏曲2番は、30代に突入しようとしていたラフマニノフの渾身の一曲でした。
復活の第一歩にふさわしい若々しく大胆な音は、聴く人の胸にそれぞれのドラマを描かずしては聴けない魅力とパワーにあふれた楽曲となったのです!
初演は大成功。ラフマニノフの作曲家としての地位を確立させたのです。
ところが、作曲者としての彼はこの「ピアノ協奏曲第2番」など非常に素晴らしい名曲を残しましたが、彼が生きている時代には評価が大きく二分されてしまって、彼の残した名曲の数々は彼の死後になって再評価されたものが多いのです。
ラフマニノフのピアノ協奏曲はラフマニノフが20代前半の時に作曲されました。
ラフマニノフがピアノ協奏曲第2番を制作した時はラフマニノフはまだ作曲家として駆け出しの時期で処女作ともいわれる作品なのですが、当時は批評家たちの酷評に晒されることも多かったのです・・
その後その魅力が再認識され、「ピアノ協奏曲第2番」も、死後再評価された作品の中の一つで、今では「不朽の名作」と高評価され、人気の楽曲となっています。
オリンピックで、浅田真央選手がフィギアースケートでこの曲を用いたことで、この曲を知らなかった人も、この曲を身近に感じるようになったのかもしれませんね・・
アシュケナージ演奏のラフマニノフ ピアノ協奏曲3番
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(この動画は、アシュケナージの演奏ですが、今回販売の商品ではありません。参考として聴いてください)
ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番 は、1909年夏に作曲され、 初演は、1909年11月28日にニューヨークのカーネギーホールにて、ラフマニノフ自身のピアノとウォルター・ダムロッシュ指揮ニューヨーク交響楽団にて行われました。
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番は ピアノ・ソロが超絶技巧で、難曲として有名ですが、ロマンティックで有名なピアノ協奏曲第2番と共にラフマニノフを代表する作品です。どちらも人気があり、甲乙つけがたいです。
ピアノ協奏曲第3番は、45分と長時間の演奏時間で飽きやすいとの声もあります。
ラフマニノフ本人ですら、カットして演奏していたくらいです。
この曲は難曲と言われてますが、どこが難しい、というより曲全体が難所のかたまりであり、ラフマニノフの音楽的要求から結果としてピアノソロが難しくなったのです。
音楽映画「シャイン」では、苦難を乗り越え演奏家として再起するまでを描いた感動ドラマにも使われました。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番のおすすめの名盤は、アシュケナージ盤です。
アシュケナージ盤は、ラフマニノフに対する理解が深く、非常にレベルの高い名盤で、おすすめです!
ラフマニノフと時代背景
ラフマニノフは19世紀後半から20世紀にかけて活躍したロシアの作曲家であり、ピアニストです。
セルゲイ・ラフマニノフは、1873年生まれ。貴族の家系であったラフマニノフは、長身の貴族的な風貌の男性でした。2メートルの長身に、大きな手の持ち主であり、彼自身が非常に熟練のピアノ演奏家であったと伝えられています。
ラフマニノフの両親は共に帝政ロシアの貴族階級出身で、両祖父は音楽に素養があった人物だったようです。
元々はかなり裕福な家だったようですが、ラフマニノフが生まれる頃にはすっかり没落し、ラフマニノフが9歳の頃にはついに破産してしまいました。
破産ついでに両親も離婚し、家族がバラバラになってしまったことでラフマニノフは大そう心苦しい思いをしたようです。
ラフマニノフには2人の姉がいましたが、一人は若くして亡くなっており、ここでも心にダメージを負ったことをラフマニノフは後に回想しています。
ラフマニノフの妻は従姉妹のナターリヤ・サーチナで、二人の間にはイリーナ(1903年生まれ)、タチアナ(1907年生まれ)がいました。
ラフマニノフの交友関係は、
特に尊敬していた作曲家はピョートル・チャイコフスキーで、彼に作曲の手ほどきを受けたこともあります。
ピアニストとして尊敬し、良きライバルとして敬っていたのはウラディミール・ホロヴィッツです。
彼が演奏するラフマニノフ楽曲は多く録音にも遺されています。
作曲家としてピアニストとして一世を風靡したラフマニノフでしたが、ロシア革命が起こったことにより祖国を脱し、アメリカへと家族で移住しました。
生活費を稼ぐため、ラフマニノフはスタンウェイと契約し、全米ツアーを敢行します。
ラフマニノフは演目も自身が作曲したものだけではなく、ベートーヴェンからショパンまで幅広いレパートリーを弾きこなし、あっという間にコンサートピアニストの名声を得ます。
しかし本人はアメリカに移住してからというもの、多忙と精神的疲労とで作曲が進まず苦悩の時代を過ごすことになります。
まとめ
今回は、【ラフマニノフピアノ協奏曲2番、3番】のCDを紹介するにあたり、この楽曲に関する情報と、作曲者であるラフマニノフについての概要、この楽曲を演奏して名盤に残した何人かの著名なピアニストの名盤の中で、アシュケナージのピアノ演奏がナンバーワンの演奏と評価されているので、アシュケナージ盤のCDをお届けしたいとおもいます。
アシュケナージとラフマニノフは生きた時代は違いますが、同じ祖国のロシア出身で、ロシアの広大な風景や、ロシア民族の風習や感性などが深く理解できるので、演奏者のアシュケナージも深い演奏が出来るのかもしれませんね・・
そんなアシュケナージならではのラフマニノフ作品の演奏は、作曲者ラフマニノフの大きな手による演奏に対して、小柄で手の小さいアシュケナージがこれらの大曲をどのように演奏しているのかを聴いてみるのも、面白いかもしれませんね!
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